ガスミュージアムブログ
東京の街~くらべる探検隊~ 第14回「日本銀行」
令和4年(2022)は、鉄道やガス事業、博物館など、文明開化の象徴となるさまざまな事業の誕生150年の年として注目されてきましたが、実は日本銀行が誕生して140年の年でもあります。
そこで今回は、創成期の日本の近代建築として有名な歴代の日本銀行の建物を巡りながら探検してみたいと思います。
【創業の地 永代橋際の日本銀行】
明治15年(1882)6月に「日本銀行条例」が公布され、同年10月に日本銀行が開業します。日本で初めての公的な銀行として、明治政府の税金をはじめとしたお金を管理する「為替方(かわせかた)」という役割を、日本銀行が行うようになりました。
写真は誕生した日本銀行が最初に営業を開始した建物です。
建物は当初「開拓使物産売捌所」と呼ばれ、北海道開拓事業をおこなっていた開拓使の東京出張所として現在の日本橋箱崎町の地に、明治14年(1881)1月に建てられました。
明治15年(1882)2月に開拓使が廃止されると、8月に日本銀行に貸し出され、10月からこの建物で営業が開始されました。
日本銀行は政府から独立した組織ではありますが、日本銀行法により政府が55%以上の資本を持つことが定められ、そして日本銀行には次の3つの役割があり、国の金融の役割の中心を果たすことから「中央銀行」とも呼ばれます。
日本銀行の3つの役割
・「お札を発行できる銀行」としての役割
・政府が集めた税金などを預かり、公共事業費などを支払う「国のお金を管理する」役割
・個人の預金を預かるのでなく、「銀行からの預金を預かる」役割
【銀行の誕生】
日本で初めて銀行という名前のついた組織が誕生したのは、明治5年(1872)に制定された「国立銀行条例」に基づいて、明治6年(1873)に誕生した第一国立銀行が最初になります。「国立銀行」と名前にありますが、国の法律に基づいた銀行という意味で、いずれも民間組織の銀行でした。
その10年後に日本銀行が創業してはじめて、国の中枢となる公的な役割の銀行が登場しました。
さて、創業時の日本銀行の建物は、英国人建築家ジョサイア・コンドル設計によるもので、隅田川にかかる永代橋際に建てられました。ヴェネチアン・ゴシック様式が採用されており、水の都、イタリアのベニスをイメージしたともいわれています。
この錦絵は、隅田川の河口側から上流の永代橋を望む風景を描いたもので、橋の西側のたもとに煉瓦造りの建物、日本銀行の建物が見て取れます。まさにベニスのような風景ですね。
ちなみに、日本銀行が誕生したころの永代橋は、明治8年(1875)に改架された西洋式の木橋で、現在の永代橋の位置より150mほど上流にあたる日本銀行の建物の前の通りに架かっていていました。
それではジョサイア・コンドル設計の建物について見てゆきたいと思います。
この建物を描いた錦絵はあまりなく、井上安治が描いた作品のほか、歌川広重(三代)が建物前の通りを中心に描いた作品などが知られています。
このほかいろいろな角度から撮影された写真を「日本銀行金融研究所アーカイブ」のHPで見ることができます。
HPの資料を見ながら建物を紹介してみたいと思います。
建物は、煉瓦造りの建坪85坪2階建てで、開拓使物産売捌所時代は、1階が北海道物産の展示販売所として、2階は食堂やビリヤード場、客室を備えた接待の場として利用されていました。
この建物の設計図が日本銀行に52枚保管されており、作図には、コンドルが日本人建築家を育成するため教鞭をとった、工部大学校造家学科(現:東京大学工学部建築学科)の教え子の辰野金吾(第1期生)や久留正道(第3期生)、河合浩蔵(第4期生)のサインの入った図面もあります。
なかでも辰野金吾は、日本近代建築の父とも呼ばれた日本を代表する建築家となり、東京駅をはじめとする多くの名建築を残したことで有名ですが、その辰野金吾ら、コンドルの教え子たちが学生時代に設計に関わっていたことがわかります。
【日本橋本石町の日本銀行】
永代橋際の建屋は手狭なうえ、街の中心からやや遠かったこともあり、開業の翌年には早くも店舗の移転が検討され、現在の日本銀行が建つ日本橋本石町の場所が選ばれました。
日本橋本石町は、江戸時代には金座(貨幣を鋳造する施設)があった場所で、明治時代当時の金融の中心である兜町と官公庁のある大手町の間にありました。大蔵省(現:財務省)や紙幣を印刷する印刷局は、日本橋川に架かる常磐橋をはさんで対岸に位置していて、至近な場所でした。また日本橋川の河岸の立地は、石材やレンガなどの資材運搬にも利点がありました。
設計にあたっては、当時の日銀総裁である川田小一郎(かわだこいちろう)が、「将来を展望し、堅固・宏壮なものを作る」方針が打ち出されました。そしてその設計を依頼されたのが辰野金吾です。学生時代に携わった永代橋脇の旧開拓使物産売渡所の建物に続き、日本銀行の建物の設計に関わることになりました。
辰野は、明治21年(1888)から1年間、ヨーロッパで建物の視察を行い、その修学をふまえて石造りの重厚な建物を設計しました。建屋は明治23年(1890)に工事着手し、明治27年(1894)完成の予定でしたが、日清戦争の影響を受けて明治29年(1896)に竣工しました。
建屋は地上3階、地下1階、延床面積約1,100㎡で、1階は総石造り、2・3階はレンガを積み上げて外壁に薄くカットされた石を貼付け、外観上は石造りとして、建物全体が石で覆われた重厚な造りを醸し出しています。
このような工法を取ったのは、明治24年(1891)の濃尾地震での被害の教訓から耐震性を考慮して、建物上部をレンガ造りとして軽量化を図りつつ、外壁を石貼りにして建物全体の一体感を保つようにしたためです。
建物は大正12年(1923)の関東大震災の際、延焼による被害を一部受けましたが、地震に耐えることができました。その後、火災で焼失した中央のドームなどは修復され、建設当時の姿に復元されました。
このネオバロック様式の建物は、赤坂離宮(現:迎賓館)とともに明治の洋風建築の傑作として、昭和49年(1974)に国の重要文化財へ指定されています。
日本橋本石町の日本銀行まで足を運んだらぜひ覗いてみたいのが、現在の日本銀行と通りを挟んだ建物にある、日本銀行金融研究所「貨幣博物館」です。
館内では、「お金」としてどんなものが選ばれ、どのように使われてきたか、といった日本のお金の歴史について、本物の資料を通して分かりやすく紹介されています。貨幣にちなんだ企画展も開催されています。
日本銀行の歴史ある建物とあわせ、さまざまな時代のお金と私たちの関わりの歴史について学べる、貨幣博物館を見学してみてはいかがでしょうか?
くらべる探検隊4号:Y.T
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