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東京の街~くらべる探検隊~第12回 鉄道創業の地「横浜ステーション」へ

テーマ:     公開日:2022年06月03日

今年は、鉄道事業が始まって150周年。

明治5年(1872)6月12日(旧暦5月7日)に横浜駅~品川駅間が仮開業したのが日本最初でした。品川から新橋までの軌道が完成して新橋駅~横浜駅間が本開業する10月14日(旧暦9月12日)より、4か月ほど前になります。

そこで、今回のくらべる探検隊は、6月12日の日本最初の鉄道開業を祝って、横浜駅と街の風景今昔をくらべて探索してみたいと思います。

ガスミュージアムの企画展でも、ガス事業150年記念企画第一回「鉄道と駅」展を開催しています。あわせてご覧いただければ嬉しいです。
https://www.gasmuseum.jp/gallery/

まず最初に訪ねたのは、鉄道創業の地。明治5年に開業した「横浜ステーション」の跡地です。現在のJR京浜東北線「桜木町駅」付近になります。
そこで出迎えてくれたのは、「10号機関車」でした。

10号機関車の実機展示(JR桜木町ビル1階)

明治4年にイギリスから輸入された10台のうちの1台で、日本最古の蒸気機関車です。この機関車は、令和2年(2020)に竣工したJR桜木町ビルの1階ロビーに展示されています。10号機関車の往時の姿も写真に残されています。当時から機関車はほとんど手を加えられていないことがわかります。

10号機関車
出展:『車両の80年 1872-1952』日本国有鉄道工作局編 1952年

この10号機関車がいる場所は、ちょうど明治5年開業の旧横浜ステーションのプラットホームがあったあたりになります。

錦絵で当時の駅の様子をみてみましょう。描かれているのは、旧横浜ステーションの全景です。駅の正面玄関前から横浜の街へ向かう右上の辨天橋(弁天橋)にかけて、文明開化の空気を醸し出すように複数のガス灯が立っているのがみえます。
そして、絵の左手にはプラットホームがあり、煙をたなびかせて蒸気機関車が停車しています。

横浜商館並ニ辨天橋図 横浜ステーション蒸気入車之図並ニ海岸洋船燈明台を眺望す 歌川国鶴 年不明

横浜商館並ニ辨天橋図 蒸気機関車部分を拡大

10号機関車の実物展示も、この錦絵に描かれた機関車の位置あたりになります。向きは錦絵とは反対で、先頭の機関車を新橋駅方向へ向けて止まっています。今にもガラスを突き破って、煙をはきながら出発していきそうですね。

10号機関車の実機展示(JR桜木町ビル1階)

日本の鉄道は、大隈重信と伊藤博文が、近代日本を形作る骨格として不可欠であるとの信念から実現に尽力し、明治維新からわずか2年後の明治2年(1869)、明治政府は鉄道建設を正式決定しました。しかし、その道のりは決して平たんではありませんでした。
西欧列強に負けない国造りには軍備が最優先で、鉄道をつくる金があったら軍備増強にまわすべきといった反対意見が出て、建議は難航します。
政府の資金不足のため、鉄道建設にまわせる予算も限られたことから、大隈重信と伊藤博文は、まずは鉄道の実現を最優先します。日本全国の都市間を巡る鉄道を一気に着手するのではなく、首都東京と国際貿易港横浜を結ぶ短区間を先行することとして、建設決定にこぎつけます。

建設が決定した後も、線路のルートを巡っては、鉄道に反対していた軍部が、軍の土地に鉄道を通すことを許さなかったため、新橋と品川の間の高輪付近は、海上に堤を築いて通さなくてはいけなくなるなど、苦難の連続でした。
しかし、建設決定からわずか3年という驚くべき短工期で鉄道は建設され、明治5年(1872)に開業することができました。
文明開化の象徴として同じく明治5年にはじまったガス事業とともに、東京と横浜の街に西欧近代文明の息吹をもたらしました。
当初建設に反対していた人も、実際に鉄道の走る様を目の当たりにして、その考えは一変していき、その後急ピッチで日本全国へ鉄道は伸延していくことになります。

次の写真は、前掲の旧横浜ステーションの錦絵に描かれた場所の現在の様子です。左手が新橋駅方向になります。

旧横浜ステーション駅舎があった付近の現在の様子

写真左手にみえるガラス張りのビルがJR桜木町ビルで、このビルの1階に10号機関車が展示されています。その後ろ側にはJR桜木町駅があります。
そして、写真右手の大きな木が生えている場所のすぐ右を、錦絵に描かれている川(大岡川)が今も流れています。高架になっている京浜東北線がその上を通っていきます。

さらに旧横浜ステーションのほうに近づいていきます。駅舎が建っていた付近は、今は桜木町駅の新南口ができています。

JR桜木町駅新南口を望む  左手のビルがJR桜木町ビル

歩道橋の階段を降りて右手に回り込むと、そこには昭和42年(1967)に建立された「鉄道創業の地」の記念碑がひっそりと建っていました。
碑盤は、鉄道創業当時に採用されていた「双頭レール」(上下をひっくり返して利用できる上下対称形のレール)で縁取られていました。

鉄道創業の地 記念碑

碑文「鉄道創業の地」

双頭レールを用いた縁取り部

さて、JR桜木町ビルの10号機関車のところに再び戻って、展示を見ていきましょう。
10号機関車には、創業当時の中等客車が再現されて連結されています。客車の内装は英国風です。このような立派な客車を連ねた機関車が線路を疾走する姿をみた、当時の人々の驚きは相当なものであったと想像できますね。当時の客車は上等、中等、下等に分かれていて、10両ほど連結された長い編成もあったようです。

中等客車の復元展示(JR桜木町ビル1階)

JR桜木町ビル1階ロビーの様子

客車展示の傍らには、旧横浜ステーションを再現した立派なジオラマ模型があります。

横浜ステーションの復元ジオラマ展示
(JR桜木町ビル1階)

駅舎や周りの道路が克明に再現されていて、この辺りが錦絵の通りであったことがわかります。

ジオラマ 横浜ステーションの側面外観 右上の橋が弁天橋

このジオラマは、昼から夜へと一日の変化を照明で再現しています。夜のとばりが訪れると、駅前から弁天橋へと連なるガス灯に文明開化のあかりが灯る様子も見れて、なかなか楽しめます。

ジオラマの夜のシーン 弁天橋にガス灯が点灯している

ジオラマには、煙突が建つガス製造所も描かれていました。横浜ステーションのプラットホームの北端のすぐ西手、運河を渡った場所にありました。
ガス製造所は、鉄道開通と同じ明治5年10月31日(旧暦9月29日)に操業開始し、横浜ステーションの玄関前から弁天橋を経て横浜市内へと連なる通りのガス灯へ、ガスを送り届けていました。

ジオラマ プラットホームの屋根の遠方にガス製造所の煙突がみえる

横浜名勝競伊勢山下瓦斯本局雪中の一覧  歌川国松 明治13年(1880 )

ガス製造所跡の現在の様子を桜木町駅側から望む 堀は道路になり、跡地に横浜本町小学校が建っている

10号機関車に別れを告げ、明治5年(1872)に開業した鉄道線路のルートに沿って新橋駅方向へ向かってみます。

桜木町駅から高島町方向へ向かう

現在の京浜東北線の高架線路に沿って桜木町駅から北西へ1㎞ほど進むと、「高島町」の交差点があります。
開業当時、このあたりは浅瀬の海で、鉄道を通すために海の上に堤を築いて線路を通しました。その築堤事業を請け負い、わずか135日(4.5か月)という短工期で完成させたのは、横浜の実業家の高島嘉右衛門でした。「高島町」の由来は、この高島嘉右衛門にちなんだものなのです。
この錦絵がその海上築堤の風景を描いています。

横浜海岸鉄道之図  歌川芳虎  明治4年(1871)

客車を連ねた列車が渡っているのが築堤です。線路の奥にはまだ入江の内海が広がっており、外海と行き来するための橋が堤に設けられています。
内海の奥にみえる小高い丘が野毛山で、明治3年(1870)に創建された「伊勢山皇大神宮」が描かれています。急速に近代化、西欧化が進むなかでも横浜の人々が日本の国柄を見失わないように、横浜の象徴として、伊勢の神宮より勧請されたと伝わる古社を再興し、港を一望する丘の上へと遷座した神社です。鉄道とともに、開化横浜の象徴だったのですね。
 
高島町の交差点のすぐ北側には、2代目横浜駅の遺構がありました。

2代目横浜駅遺構案内板


2代目横浜駅外観 (遺構案内板より)

実は横浜駅は、3回も場所を移転している、とてもめずらしい駅なのです。

初代が明治5年(1872)創業の旧横浜ステーション(現桜木町駅)で、2代目がこの高島町に遺構が残る大正4年(1915)開業の駅。そして3代目が、昭和3年(1928)に移転された、現在の横浜駅になります。

初代横浜駅である旧横浜ステーションは、明治5年(1872)の創業当時、横浜の街と東京をつなぐ「終着駅」として設けられました。
その後、日本の鉄道網が発展をみせ、鉄道は日本の中心都市を結ぶために西へ伸延していきます。明治20年(1887)には、程ヶ谷(現保土ヶ谷)経由で国府津方面へ向かう線路が開通します。このときから、旧横浜ステーションで列車はスイッチバック(方向転換)で折り返して西へ向かう運行となります。明治22年(1889)7月には東海道線が全通します。しかし、東海道線の各列車はすべて横浜駅で5分間停車して機関車の進行方向を転換する必要があり、不便でした。
明治31年(1898)、東海道線が複線化した際に、本線は旧横浜ステーションを通らず、北側を短絡して結ばれた路線で程ヶ谷へとつながり、旧横浜ステーションは、ローカル列車のみの発着駅となってしまいます。
日本随一の貿易港である横浜が、近代日本の基軸となった東海道線からはずれてしまうという事態になってしまったのです。

そこで、大正4年(1915)になって、東海道線の本線が停車する2代目の横浜駅が新たに誕生します。赤レンガ造りで中央に塔を持つ立派な駅舎でした。東海道線の線路は、2代目横浜駅に停車してから西向きにカーブして、程ヶ谷駅方向へと向かいました。
旧横浜ステーションは、「桜木町駅」と改名され、当時東京と横浜を走り出していた「電車線(通称京浜線)」の旅客駅となります。

けれども2代目横浜駅は、わずか8年間という短命の駅でした。
大正12年(1923)関東大震災で被災して、焼失してしまいます。その駅舎の遺構が、現在、マンション脇の公開空地のところに残されていました。

2代目横浜駅の基礎部分が残っている


震災復興が進み、昭和3年(1928)に3代目横浜駅が完成します。2代目横浜駅にむけて大きく湾曲していた東海道線の線路を最短経路で直線的に結ぶ位置に、新たな横浜駅舎は建てられました。

現在の横浜駅東口

「温故知新のみち」案内板 高島町と3代目横浜駅が紹介されている

3代目横浜駅外観 (温故知新のみち案内板より)

現在の横浜駅東口を出てすぐのところに、歴史の道しるべの案内板が建っています。そこに3代目横浜駅の外観が紹介されています。3代目横浜駅は、竣工時に東洋一の新様式ともてはやされたようです。

こちらの錦絵が、明治5年(1872)の鉄道開業時の、3代目の現横浜駅付近を描いたものです。当時は、このあたりは平沼と呼ばれる湿地でした。

横浜往返蒸気車全図 歌川広重(三代) 明治5年(1872) 現横浜駅付近を描いている

今は横浜駅西口の中心市街が広がっているあたりになります。
探検にいった日は夕焼けが広がり、平沼一帯が発展した市街と、その奥に見える丹沢山系や富士山まで一望できました。
まさに、150年前に錦絵に描かれた富士山そのままですね。

現横浜駅と西口の平沼方面市街を望む

市街地の先には富士山と丹沢山系

霊峰富士は、国際貿易都市横浜と、そして鉄道の発展を、ずっと見守っていたのですね。

今回は、鉄道発祥の地、横浜ステーションの昔の姿を探しながら、横浜の街を探訪しました。
横浜に訪れた際につい通過してしまう横浜駅や桜木町駅ですが、ちょっと足を止めて、文明開化の歴史の舞台もぜひのぞいてみてください。

また、先ほどご紹介しました、ガスミュージアム企画展「鉄道と駅」展、ぜひ観に来てください♪
https://www.gasmuseum.jp/gallery/

お待ちしています!

くらべる探検隊2号 Y.A.

 

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