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東京の街~くらべる探検隊~第8回 渋沢栄一ゆかりの街 「日本橋兜町」

     公開日:2021年11月19日

渋沢栄一の没後90年の命日にあたる11月11日、東京タワーが一夜限りで渋沢Blueにライトアップされました。

東京タワー藍色ライトアップ

実際にご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。
渋沢栄一の、「逆境のときこそ、力を尽くす」という精神を受け継ぎ、コロナ禍に立ち向かうすべての方への応援の気持ちを込めたライトアップです。
一夜限りではありましたが、東京の街が藍色に美しく輝き、見上げると心が洗われる思いでした。

さて、今回の「東京の街 ~くらべる探検隊~」は、渋沢栄一没後90年にちなみ、渋沢栄一と縁が深い街、「日本橋兜町」を訪れます♪(以下、兜町)

「兜町」といえば、日本の証券取引の中心地として有名ですね。
今や、ロンドンの「シティ」やニューヨークの「ウォール街」とならび、日本の証券市場や証券界の代名詞として、「兜町」の名が用いられています。

実は、明治期の近代社会創生期に、この「兜町」の繁栄を築いた立役者が渋沢栄一なのです。

現在の東京証券取引所

兜町の地は、日本橋川の南岸、日本橋から東に500mほどに位置しています。
東京湾や墨田川からの水路での入り口にあたり、江戸城のすぐ北を流れる日本橋川の海側の守りの要として、江戸時代の始めに埋め立てられた土地でした。江戸幕府の初期の頃には、水軍司令官「向井将監の屋敷」がおかれ、徳川家康の御座船「安宅丸」の係留地にもなっていて、まさに江戸の水の玄関口でした。
幕末の頃には、流水の池泉を持つ名園が有名だった「牧野邸河内守上屋敷」がありましたが、明治維新を経て、新政府が大名屋敷を収用したため、兜町一帯も政府所有の土地となります。

そして、明治3年(1870年)12月に、牧野邸の跡地の1/3の土地が、明治維新を資金面で支えた豪商の三井組に、維新の恩賞として政府から無償で払い下げられました。
ここが、日本最初の銀行である「第一国立銀行」(現みずほ銀行)の建設の地になります。

第一国立銀行 外観

建物は、明治4年(1871年)7月に着工し、翌明治5年(1872年)6月に竣工します。建設時は、三井組の銀行「三井バンク」の社屋用として建てられましたが、渋沢栄一の働きかけで建物は譲渡され、渋沢栄一が日本の近代経済発展の礎として育んでいこうとしていた「合本会社(株式会社)」の銀行として、「第一国立銀行」が明治6年(1873年)8月に開業します。
この時から、経済センターとしての「兜町」の歴史が始まりました。

第一国立銀行の跡地 現在はみずほ銀行 壁面に銀行発祥の地の記念碑がある

「兜町」の町名は、明治4年(1871年)9月、牧野邸の跡地の残り2/3の土地が、三井組、小野組、島田組に払い下げられた際に政府が命名したことに始まります。ちなみに、このときの政府といえば、渋沢栄一が民部省、大蔵省で采配を振るっていたころでしたので、渋沢栄一は、新たな日本の経済センターとなる「兜町」誕生の時、その命名にも関わっていたことになります。

兜町という名は、日本橋兜町に今もある、兜神社の「兜岩(かぶといわ)」にちなんだ、といわれています。兜岩の由来については次の3つの説があり、確かな文献等は残されていません。源義家が奥州から凱旋する際に、東国の反乱鎮定のために兜を楓川のほとりに埋めて塚を築き、これを兜塚と呼んだという説。前九年の役の頃、源義家が東征する際に、兜を岩にかけて戦勝を祈願したことからこの岩を「兜岩」と呼んだという説。藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が平将門の首を打ち、兜と一緒にここへ持ってきて兜だけを埋めて塚を築いたことから兜山と呼ぶようになったという説、が伝えられています。

兜神社

そして明治6年、官を辞して民間の立場になった渋沢栄一は、設立されたばかりの第一国立銀行の総監役(翌年から頭取)に赴任し、日本経済、そして兜町の繁栄を、まさにけん引していくことになります。

渋沢栄一は、次々に日本の経済を支える会社や団体を設立しますが、その設立した会社、団体や、多くの関わりがある会社の事業所が兜町一帯に集まり始めました。
明治6年(1873年)には、第一国立銀行に続き、「王子製紙会社」、明治7年(1874年)には「島田組」、「三菱会社」が転入、明治9年(1876年)に「三井物産会社」が設立されます。
そして明治11年(1878年)には、渋沢栄一の信条を具現化した日本初の公的な証券取引機関である「東京株式取引所」(現東京証券取引所)が、兜町に設立されます。

東京名所 兜町米商会所 鎧稲荷祭礼之真図 歌川広重(三代) 明治11年(1878年)

この錦絵は、明治11年頃の兜町の様子です。絵の右端に描かれた、屋根に柵のような装飾がある建物が東京株式取引所です。

さらに、明治12年(1879年)「東京海上火災保険会社」、明治16年(1883年)には「明治生命保険会社」が転入します。

そして、明治18年(1885年)。
日本の会社や経済機関が育ち始めて、本格的な西欧建築の時代になると、渋沢栄一の描いた「兜町」への思いが、様々な建築物として表れていきます。
その先駆けとなった建物が、この年に竣工した「銀行集会所」です。

銀行集会所

銀行集会所跡地 現在の様子

この建物を設計したのは、東京駅の設計で有名な、日本建築界の父と称される辰野金吾です。
渋沢栄一は、当時まだ若干30歳で、工部大学校の第一期生として卒業後の欧州留学から帰国したばかりの辰野金吾を起用して、ヴェネチア様式の建物を設計させたのでした。そして、銀行集会所の建物が、辰野金吾の建築家としてのデビュー作となります。

実は、この「ヴェネチア様式」には、渋沢栄一の抱いた大きな夢が込められていたのです。
渋沢栄一は、東京を、そして兜町を、自由商業都市の象徴であるヴェネチアのような、商都にすることを夢見ていました。そのため、渋沢栄一が関わった建物には、ヴェネチア様式が次々と採用されていきました。

明治21年、渋沢栄一は兜町の北端の日本橋川に臨む場所に邸宅を新築します。この邸宅も辰野金吾が設計を手掛けた、見事なヴェネチアンゴシック様式の建築でした。
日本橋川をヴェネチアの運河に見立て、ベランダを配した美しい姿を水面に映す建物です。

日本橋川と渋沢栄一邸

渋沢栄一邸を陸側から見る

その姿はまさに、渋沢栄一のロマンが結実した理想の館だったのです。
写真に写っている運河を行き交う船までも、まるでヴェネチアゴンドラと見まがうような風景ですね。

憲法発布式大祭之図 江戸橋ヨリ鎧橋遠景 井上安治 明治22年(1898年)

渋沢邸と兜町は、当時も大変注目され、第一国立銀行とともに錦絵にも描かれました。
当時の街に、活気がある様子がわかります。

江戸橋から渋沢栄一邸跡地を望む

こちらは、現在の風景です。江戸橋から旧渋沢栄一邸方向を見ると、日本橋川には、首都高速道路の高架が覆いかぶさり、ほとんど見えません。往時の景観からはすっかり様変わりしてしまっていますね。

明治24年(1891年)に新築された、「明治生命保険会社」も辰野金吾の設計で、ヴェネチアのある地方の様式をもとにしたイタリアの伝統的なデザインの建物です。

東京大日本名勝之内 明治生命保険会社 勝山英三郎  明治24年(1891年)

明治生命保険会社跡地 現在の様子

明治28年頃の日本橋兜町付近

明治24年には、「東京商業会議所」(現東京商工会議所)も転入し、明治31年(1898年)になると、「東京株式取引所」の新社屋が竣工します。まさに日本経済の中心地としての活気を帯びた街は、円熟期を迎えます。

東京株式取引所 外観

同 建物内部の取引所の様子 ガス灯シャンデリアが左手上部に灯っている

東京株式取引所のガス灯シャンデリア納入時の様子

ところが、大正12年(1923年)の関東大震災で、渋沢栄一邸をはじめとする兜町一帯は大きな被害を受け、すべて焼け野原と化してしまいます。

さらに大正時代には、日本の経済も大きく様変わりしていました。かつて日本橋界隈は江戸、東京の水運の拠点として繁栄を築いていましたが、この頃、物流の中心は、鉄道による陸運へ移り、また経済活動のセンター街の座は、渋沢栄一のライバルであった三菱が開いた街、丸の内へ移っていました。
渋沢栄一が思いをはせたヴェネチアの夢は、兜町の街ごと、建物とともについえてしまったかのようでした。

現在の兜町の街角  ヨーロッパの街に迷い込んだようです

しかし震災後も、兜町には、渋沢栄一が日本の経済発展の礎として育ててきた「株式取引」機能は残ります。復興で再建された兜町には、証券取引の街として、多くの証券会社が欧風の石造りの建物を建て、昭和初期には、どこかヨーロッパの都市と見まがうような街並みになりました。今でも街角には、昭和期の重厚な石造りの洋館の、証券会社の建物が残っています。

渋沢栄一邸の跡地に昭和3年(1928年)に建った日証館も、重厚な石造りのアーチが連なる美しい建物です。証券取引所を集めた集合ビルで、今でも往時の美しい姿を保っています。

日証館 外観

日証館 エントランスホール


 

また、渋沢栄一邸の跡地西端には、昭和2年(1927年)に、鎧橋(よろいばし)のたもとにあった兜神社が移されています。日証館は、その兜神社に隣接するかたちで建設されています。明治11年(1878年)に、東京株式取引所の鎮守として造営された兜神社は、現在も、渋沢栄一邸のあった場所から、街を見守っています。

日証館の前の道は「渋沢ロード」 街灯には渋沢栄一のバナーがかかる 日証館左手の緑が兜神社

現在の東京証券取引所から日証館を望む

現在も東京証券取引所は明治の頃と同じ場所にあります。右手の道の奥に見える白い洋館が、旧渋沢栄一邸の後に建つ、日証館ビルです。

兜町は、その後も日本の証券取引のセンターとして、戦前から戦後、高度成長期へと日本の経済を支え続け、世界に冠たる証券取引の街として活況を呈していました。

平成になり、時代はさらに進化します。平成11年(1999年)には、株式取引の電子化移行に伴い、売買立会場が閉鎖されます。現在、その跡地には平成12年(2000年)に開設した「東証ARROWS」があり、なかには、東京証券取引所のマーケット部門が売買監理業務を行っている「マーケットセンター」や、TV局のスタジオがある「メディアセンター」などがおかれています。マーケットセンターの様子を見学したり、株式投資の体験コーナー、証券について学習できるコーナーなど、証券取引について、広く市民に知ってもらう機能が備わっています。(現在は新型コロナの影響で見学等は中止しています。)

渋沢栄一も、きっとこのように市民との距離感が近い証券取引の姿を夢見ていたのではないでしょうか。渋沢栄一が思いを込めた、合本会社(株式会社)が日本の経済を支える姿は、今も兜町に息づいているのです。

令和3年(2021年)8月、兜町に新たな再開発ビル「KABUTO ONE」が竣工しています。

KABUTO ONE 外観

このビルは、地域のゲートとして金融拠点を象徴し、かつ日本の金融資本市場の“顔”となることを意識した複合オフィスビルです。
ビルの象徴として、1階アトリウムには、マーケットの活気や動向を感じられる世界最大規模のキューブ型大型LEDディスプレイ「The HEART」が設置されています。

The HEART

そして、そのキューブの下には、渋沢栄一が邸宅に置いていた縁起石「佐渡の赤石」が鎮座しています。
この佐渡の赤石は、明治21年(1888年)に渋沢栄一が兜町に邸宅を建てた際に、日本経済の繁栄を祈念した縁起石として設置され、渋沢栄一が生涯大切にしていた石です。

佐渡の赤石

まるで、渋沢栄一の縁起石が、世界の金融市場の命運を支えているようですね。

最後に、街が薄暮に包まれる頃にちょっと立ち寄りたい、素敵なお店をご紹介します。
旧渋沢栄一邸前の「渋沢ロード」にあるBAR青淵(AO、あお)です。

BAR 青淵(AO)

大正12年竣工の古い洋館をリノベーションしたライフスタイルホテル「K5」(ケーファイブ)の1階にあり、東商ARROWSのビルを眺めながら、渋沢栄一に献杯! できますよ。

ホテルK5 エントランス  右手がBAR青淵

お店の名前の「青淵」は、ご存じの通り渋沢栄一の雅号で、渋沢栄一の足跡にちなんだ12種類のオリジナルカクテルが揃っています。インテリアは濃赤で統一されていて、兜町の息吹の中心となるようにHEART(心臓)をイメージしているそうです。

今回の東京の街~くらべる探検隊~は、渋沢栄一ゆかりの街「兜町」を探検しました。ぜひ皆様も、渋沢栄一のロマンを感じに訪れてみてください♪

くらべる探検隊2号 Y.A

<参考文献>
・『建築探偵の冒険・東京編』(藤森照信著 筑摩書房 1989年12月)
・『別冊太陽「渋沢栄一」』 (平凡社 2021年1月)
・『辰野金吾』(清水重敦・河上眞理著 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 2014年3月)
・平和不動産HP
・中央区HP
・渋沢栄一記念財団HP

 

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