ガスミュージアムブログ

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東京の街 ~くらべる探検隊~ 第6回「永代橋」

     公開日:2021年09月03日

今回ご紹介するのは、前回の両国橋に引き続いて隅田川に架かる橋、永代橋です。

9月1日は「防災の日」でしたね。
永代橋は、関東大震災の復興の象徴として架けられた、堅牢であり、かつ優美な姿が美しい東京を代表する橋のひとつです。

現在隅田川に架かる橋は、言問橋、駒形橋などその多くが明治時代以降の橋。江戸時代から架かるのは、時代順にいうと千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋、吾妻橋の5つだけ。今回ご紹介する、永代橋は4番目に古い橋です。

東京湾方面に向かう水上バスから見た永代橋。

橋の名の由来は、徳川幕府5代将軍綱吉公の50歳を祝賀して架けられたからとも、古くは島だったことから永代島と呼ばれる地域に架けられた橋だったからともいわれます。上野の寛永寺建立の際に余った木材を使い、元禄11年(1698年)に深川と日本橋をつなぐ優美な木製の橋が架けられます。

初代の永代橋は、隅田川に架かる橋としては最長の約200メートル、幅は約6メートルでした。江戸湊の外港に近く、多くの船が通過するために、橋脚は満潮時でも3メートル以上ありました。

江戸時代には大川と呼ばれた隅田川。江戸時代の川は、モノを移動させる重要なルートであり、特に大坂からの物流には欠かせない重要なインフラでした。
と同時に、川をまたいで地域を分断するので、徳川幕府は橋の数を管理することで人の流れを規制しました。

橋は、かつて「深川の大渡し」のあった場所に架けられました。
明暦3年(1647年)振袖火事として有名な明暦の大火で甚大な被害を受けた江戸の町。
徳川幕府はそれを機に、手狭になった江戸の町をさらに大川の対岸の本所・深川へと拡大していきます。そのためには人の流れを促す大きな橋が必要だったのではないでしょうか。定説はありませんが、これ以降、深川一帯は大きく発展していきます。

橋からの眺めは江戸市中でも随一。近くの佃島を始め、遠くは伊豆や箱根、また上総(千葉)、さらには富士山まで見渡せる広大な眺めは圧巻で、浮世絵画家歌川広重も作品のテーマに幾度となく取り上げています。

歌川広重「東都名所永代橋全図」(国会図書館蔵)

この絵は、川の西岸日本橋から江戸湊を眺める構図です。右上の半島のように伸びるのが佃島。対岸の左が深川新地です。深川では当時盛んに干拓が行われていました。

画面右奥、佃島の手前には菱垣廻船や樽廻船に使われるような大型の弁財船が帆を下して停泊しています。このような大型船では川を上ることはできないため、荷を沖で小船に積みかえました。橋の下をその小船が、川上を目指して進みます。積み荷は主に大阪からの「くだりもの」。この江戸湊に集結しました。船は、日本橋川や八丁堀の運河を経由し、積み荷を運河沿いの河岸で降ろしました。
   
橋のたもとの番屋の右には小さな橋が架かっていますが、この川が日本橋川です。
現在永代橋はこの川より下流に架っています。橋の位置が現在より川上だったことが見て取れます。

江戸切絵図 築地八丁堀日本橋南絵図(国会図書館蔵)

画面右下の深川に架かる黄色い橋が、永代橋。橋のすぐ下流(左側)で大川に合流するのが日本橋川。永代橋のほうが上流側にあることがわかります。

建設当初から約200年間、永代橋は木橋でした。外港に近く流れが速いためにおこる橋脚の傷み、また洪水や火事で橋のかけ替えは繰り返し行われました。明治8年(1785年)頃に橋は洋風の木橋にかけ替えられます。

その橋を描いた作品が、ガスミュージアム所蔵品にありますのでご紹介します。

歌川国政(五代)新規造掛永代橋往来繁華佃海沖望遠之図

この絵も冒頭の広重の絵と同様、日本橋から江戸湊を眺める構図です。この年に永代橋が洋風の木橋に架け替えられ、人力車も通りやすくなりました。
まだ写真が一般的でなかった時代、錦絵はその時代のニュースを発信する意味合いもありました。

広重の絵を思わせるように、画面中央には弁財船の姿が。この和船が、明治にもまだ主力として活躍していたことが伺えます。
当時は永代橋の下流にはまだ橋がなく、佃島まで遮るものが無い一面の大海原。
広重が見たあの圧巻の眺めに引けを取らなかったかもしれません。

そして、反対に沖から見た永代橋の錦絵をガスミュージアムの所蔵からもう一枚。

井上安治 永代遠景

こちらは江戸湊から大川河口を望む景色です。佃島から見た眺めでしょうか。
画面左手前に弁財船が大きく描かれてます。右隣の小舟と比較すると、100万石ともいわれる弁財船のスケール感が伝わります。

画面右手の遠くに見えるのが永代橋です。そのシルエットから前述の歌川国政が描いた洋風の木橋と同じであることがわかります。

江戸時代に橋のあった地点から見た現代の永代橋。東京湾に臨む。

現在の永代橋からの東京湾に臨む雄大な眺め。

橋が現在の場所に移ったのは、明治30年(1897年)のこと。隅田川に掛かる橋としては3番目の鉄橋(鋼トラス橋)となりました。

その後関東大震災で焼失し、大正15年に(1926年)現在の橋が建てられました。
鋼製の半曲弦の長大なトラス橋で、男性的なおおらかなラインが特徴です。関東大震災の復興の象徴として、ドイツのライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルに造られました。    

隅田川に架る橋では清洲橋、勝どき橋とともに重要文化財に指定されています。

       
安全面では令和2年(2020年)に橋梁の長寿命化の工事が完了し、美しく安全な橋として生まれ変わりました。

江戸時代には、洪水や火事による橋の維持には多大な費用がかかったことから、幕府の財政が困窮を極めた享保4年(1719年)、幕府は一時廃橋と決めます。しかし橋の維持費を町方が負担することを条件に廃橋は免れました。

その維持管理に不備があったのか、文化4年(1807年)に、対岸の深川の富岡八幡宮のお祭りの見物客の群衆の重みで永代橋は崩落し、1500人を越える犠牲者を出すという大惨事を起こします。当時の大事件として歌舞伎や芝居にも描かれるほどで、これ以降永代橋は富岡八幡宮のお祭りのルートから外されていました。

大正15年(1926年)に現在の堅牢な橋になり安全が確保できると、120年ぶりに永代橋が祭りのルートに加えられ、再び日本橋地区に神輿がもどってきました。
橋の安全の確保は、市民生活にも大きな影響があるのですね。
 
富岡八幡宮にも行ってみました。

富岡八幡宮

富岡八幡宮は永代島一帯を守る氏神様です。元禄時代の豪商、紀伊国屋文左衛門は木場に住んでいたことから、神社に総金張りの神輿三基を寄贈します。その神輿は大正12年(1923年)の関東大震災で惜しくも焼失してしまい、現在あるのは2代目です。

3年に一度の深川八幡祭りの日以外は、中の様子が見えるガラス扉の収蔵庫に大切に保管されています。ガラス越しの豪華で優美な神輿に当時の人の祭りに掛ける熱い思いが伝わってきました。

では、江戸時代の重要な水上ルートである隅田川から現代の永代橋を眺めてみましょう。
渡し船ならぬ水上バスに乗って川を下ってみました。浅草から日の出桟橋までの片道40分のコースです。

広重が描いた佃島のあたりの石川島には、現在高層マンションが立ち並ぶ再開発の街「大川端リバーシティ21」があります。
江戸の風情とは異次元の、未来都市の風貌です。

東京湾方向へ向かう水上バスから見た永代橋。

永代橋をくぐり、水上バスがさらに沖へと進むと、高層マンション群のある石川島の背後から佃島が現れます。
今は地続きになっていますが、佃島には今も江戸の風情が残ります。

写真中央より右側の、低層な建物が密集する地域が佃島。

夕暮れ日没15分頃には、永代橋を始めとする隅田川に架る橋は、ライトアップされています。
橋のイメージに合わせて、色とりどりのLEDでやさしく煌めきます。
実は、ライトアップは先月リニューアルされたばかりで、8月24日からお披露目が再開されています。光の色は四季の移ろいと、平日、休日の組み合わせで変化していきます。

リニューアル後の夜の永代橋。

3年に一度開催される江戸三大祭りの一つ深川八幡祭りは、次回の開催は2024年の8月15日頃の予定です。こちらもどうぞお楽しみに。
早く日常がもどりますように。

かつての江戸湊からの汐風に吹かれながら、雄々しい永代橋を眺めていると、古き良き時代を懐かしむ思いより、今この時、この瞬間に向き合おうとする思いが強くなります。
古いものも新しいものも受け入れ、渾然一体となって進化していく川のある都市の風景。見ている現代人の心を優しく開放してくれます。

くらべる探検隊5号 C.T.

 

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