ガスミュージアムブログ

ガスミュージアムブログ

東京の街 ~くらべる探検隊~ 第5回「両国橋」

     公開日:2021年08月06日

東京の街「くらべる探検隊」の5回目は、両国へ行ってみましょう♪

両国というと、みなさんは何をイメージされますか?
まず思い浮かぶのは、「お相撲さん」や「両国国技館」ではないでしょうか?
JR両国駅の改札口付近ではお相撲さんの絵がお出迎えしてくれました。
ちょっとわくわくしてきますね♪

改札口を出て少し歩くと、すぐ隣には国技館が待ち構えています。

しかし、今回の目的は両国橋ですので、反対方向へ歩いて行きますよ♪
両国橋は、両国駅から500メートルぐらい歩いたところにあり、隅田川に架かる橋です。

両国橋は、江戸時代の明暦の火事(1657年)のときに、隅田川に橋が無く逃げられずに多数の死者を出たため、
大火の後に橋が架けられたのが最初です。

両国橋の名前の由来は、武蔵国(東京)と下総国(千葉)の二国を結ぶ橋であることからこう呼ばれましたが、正式にはただの“大橋”でした。
しかし、元禄6年(1693)に新大橋もつくられたため、 “両国橋”が正式な名となりました。

この日はお天気も良く、隅田川ではジェットスキーを楽しんでいる人たちがいました。
時々、遊覧船も通りましたよ。

では、明治の両国橋を見てみましょう。

この作品は「東京両国橋川開大花火之図」(明治23(1980)年)永島春曉の作品です。

人の賑わいと花火の風景に圧倒されますね。こんなに人が集まり活気がある場所だったのですね。
とても華やかに描かれていて、びっくりしました。
両国川開きとは、8代将軍・徳川吉宗の時代、亨保18年(1733年)、当時の大飢饉や江戸に流行したコレラによる死者供養と災厄除去を祈願して、20発前後の花火が打ち上げられたとされることに由来します。

これが「両国川開きの花火」の始まりで、やがて庶民の楽しみとして定着し、
現在の「隅田川花火大会」へと引き継がれています。

では、墨田区側から中央区日本橋側へ橋を渡ってみましょう♪
ガードレールには、花火とお相撲の軍配がデザインされていましたよ。

橋の中央付近には土俵をデザインした円形バルコニーもありました。

橋の上からはスカイツリーも見えますね。

中央区側に渡り、墨田テラスに降りてみました。
隅田テラスの入り口に、両国橋と両国広小路についての説明書きがありました。


_________________________________________________________________
両国橋と両国広小路

明暦3年(1657年)の火事は、江戸中の大半を焼き尽くす大火でした。当時、隅田川には橋がなかったため、
多くの人々がなくなりました。
このため、万治2年(1659年)、橋が架けられ、橋の東西のたもとには延焼防止と人命救助のため、
火除け地として広小路が設けられました。
年が経つにつれ、両国広小路では小屋がけで見世物を出したり、芝居小屋や飲み食いの店などが設けられて
江戸随一の盛り場となりました。
現在、両国広小路はなくなりましたが、両国に向かって左側の道脇(東日本橋2-26)に
記念碑が建てられています。
_________________________________________________________________

永島春曉の作品「東京両国橋川開大花火之図」にある大勢の人の賑わいは、両国広小路の様子が描かれていたのですね!

説明書きにありました、「記念碑」を探しに行ってみました。
少し歩くと、このように記念碑が立っていました。

両国広小路は西と東があり、この旧跡碑のあたりは西両国です。
現在、中央区東日本橋と呼ばれるこの記念碑の周辺は、当時「両国」という地名だったので、
「両国広小路」と名付けられたのです。

ちなみに、両国広小路、下谷広小路(上野広小路)、浅草広小路は、江戸三大広小路と呼ばれています。

さて、再度両国橋の歴史に戻りたいと思います。

江戸時代の両国橋の流出回数は2回。焼落回数5回、その他破損で十数回改架されました。
明治8年(1875年)12月、歩車道区別があり、トラス補強の洋風木橋に改築されました。
橋面は、それまでの反りはなく、人力車や馬車が通りやすいように平らになりました。
<水の江戸>から<陸の東京>への準備は着々とされていきました。親柱や袖高欄は石造です。

明治30年(1897年)夏の川開きで群衆の転落事故が起きました。これを契機に明治37年(1904年)、
三径間(川の中に支柱2本を立て、3つの差し渡しを連続させて渡している)のトラス橋が架けられました。

こちらがその当時の両国橋です。

しかし、この橋は、関東大震災で橋が大破損してしまいました。
橋面が焼け落ちて(木でできていた)、構造材だけが残り、その中央径間は現在、中央区新川1丁目と湊1丁目の間に流れる亀島川に架かる橋、「南高橋」に再利用され、今では車を通す現役トラス橋としては都内最古となっています。
全国的にみても6番目であり、重要な土木文化遺産になっています。

こちらが、現在の南高橋です。

近代的なタワーマンションを背景に南高橋を見ると、
明治37年(1904年)のトラス橋の一部とは全く想像つきませんね。貴重な橋です。

さて、現在の両国橋は昭和7年(1932年)にできましたが、かつての位置より20メートル上流に架設されています。
架設当時、上流の言問橋とともに、長大な鋼ゲルバー橋としてその威容を誇りました。
その当時の様子を描いたのがフランス人のノエル・ヌエットです。

ノエル・ヌエット「東京風景 両国橋」<昭和11(1936)年 木版画>
モダンで洗練された素敵な橋ですね。

こちらは、現在の両国橋です。特徴的な親柱はヌエットの作品には描かれていませんが、
袖高欄のアールデコ調のデザインはそのままですね。橋の上部構造は、改修・修景されていますが、
橋灯は竣工当時のものと同じデザインになっています。

さて、他の錦絵も見てみましょう!
両国橋界隈の風景を特徴づけるもののひとつに、「百本杭」があります。

百本杭とは、
昭和5年(1930年)に荒川放水路が完成するまで、隅田川には、荒川、中川、綾瀬川が合流していました。
そのため、隅田川は水量が多く湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食されました。

両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急だったため上流からの流れが強く当たる両国橋北側付近には数多くの杭が打たれました。
水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ川岸を保護するためです。

そして、たくさんの杭はいつしか百本杭とよばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。
江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場したそうです。
その後、明治時代末期から始められた護岸工事でほとんどの杭は抜かれ、百本杭と隅田川が織りなす風情は今では見られなくなりました。

それでは、百本杭の風景を描いた作品を見てみましょう♪

こちらは、小林清親「千ほんくい両国橋」<明治13年(1880年)>の作品です。

そして、もうひとつ、井上安治「東京真画名所図解 両国百本杭之景」<明治14-22(1881-1889)年 >
の作品です。

井上安治の作品は、師である小林清親の作品をなぞるようにほとんど同じ構図で描かれています。
百本杭の向こうに見えるのが両国橋です。

百本杭のあったと思われる現在の場所です。
総武線の鉄橋下付近になります。

両国橋の歴史をご紹介してきましたが、最後にもう一度花火に触れたいと思います。
毎年今頃の時期は各地で花火大会が開催され、みなさん夏を満喫している時期だと思います。
残念ながら、隅田川花火大会は今年も中止になってしまいましたね。

両国の川開きから続いている隅田川花火大会を、錦絵でお楽しみいただこうと思います。

東京名所「両国河ひらきの景」「吾妻橋之図」
蕾斎<明治31(1898)年 石版画>の作品になります。

夜空に大きく打ち上げられた花火とたくさんの屋形船に浴衣姿の女性、なんとも優雅で涼しげな光景です。
中央にはお月さまも描かれています。
右上には吾妻橋も描かれており、明治20年(1887年)、隅田川初の鉄橋ということで、
東京名所として注目されていたことがわかります。

「両国川開き花火」は戦争などにより、度々中断し、交通事情や墨田川の汚染などにより、昭和36年(1961年)を最後に終了しました。
「隅田川花火大会」として復活したのは昭和53年(1978年)のことです。

こちらの写真は、復活2年目の隅田川花火大会の様子です。(両国花火史料館の資料より)

蕾斎の作品と同じように、大きな花火とたくさんの屋形船が写っていますね。
復活を楽しんでいる様子が伝わってきますね。こんな風にまた花火を楽しみたいです♪

来年こそは、隅田川の花火大会が開かれることを願っています。
まだまだ夏は続きますので、みなさまどうぞおうち時間で楽しい夏をお過ごしください。

次回はどこに行きましょうか?お楽しみに♪

くらべる探検隊1号 T・Y

 

ホーム

 

サイトトップに戻る

最新の記事

テーマ別

アーカイブ

このページの先頭へ